河道と堤防の構造・設計の実際 2025年6月20日 最終更新日時 : 2025年6月20日 シンポジウム事務局 発表者 石田 和也/国土交通省 水管理・国土保全局 治水課 流域減災推進室 説明資料 河道と堤防の構造・設計の実際_石田和也ダウンロード
今回の御発表は構造令や技術基準に関するものが主体でしたが、流域減災推進室長というお立場からすれば、河道と堤防の設計論だけでなく、今後増大する超過洪水(河道容量を超える洪水)による氾濫原での氾濫流制御についても述べていただきたかったと思います。そこでまず、OS1全体への私のコメントに対してご意見をいただければ有難く存じます。
以下では、石田さんご自身の御発表について質問とコメントをいたします。なお、文中のPage #は、石田さんが特設サイトに掲示しているPDFのページ番号です。
Page 5の構造令の中の余裕高は計画流量の規模によって定められているので、計画流量の大きな本川は支川に比べて余裕高が大きいでしょう。したがって本川が河道満杯流量で流れればBackwaterにより支川で越水破堤が生じやすくなるでしょう。令和元年の阿武隈川水害では、この問題が顕著に現れました。直轄管理の本川は河道満杯にかなり近づきましたが“ほぼ無傷”でした。しかし多数の県管理の支川がBackwaterで軒並み破堤したわけです。ですから直轄区間の河川管理者は本川・支川のバランスを詳細に考えた上での余裕高の設定が必要になるのではないでしょうか?
Page-12の図中に赤字で書かれている「エネルギーの要素に分解すれば・・・・」の具体的意味が不明です。流水エネルギー(あるいは水頭)は河床高、圧力水頭、速度水頭から構成されますが、それらに分解するということですか?・・・・あるいは、それらの空間変化ということですか?・・・・あるいは平均エネルギーと変動エネルギーということですか?・・・・しかし、図の下の赤線部分にある高水敷洗堀という観点からすると、流水が高水敷面および低水路河岸面に及ぼす“力(せん断力や圧力勾配)”が重要です。力はベクトル量であり、スカラー量であるエネルギーとは別物です。流水が河岸などに作用する力は、一般に運動量解析によって直接求められ、エネルギーは運動量解析の結果から計算できる量です。したがってエネルギーをことさら議論しなければならない理由は何ですか?
Page-14の円グラフによれば、堤防決壊は越水によるものが大部分を占めています。とすると、粘り強い堤防について考察するには「越水しても決壊しなかった堤防」を調べる必要があると思います。これについては一つ後の瀬崎さんの発表に対するコメントで述べていますので、参照していただけますか。
最後にやや重い問題について述べさせてください。
Page-10にある「流域治水関係者が取り組む流域治水(流域対策)」の図は、実際の流域地形をかなりディフォルメしていると思います。地理院の治水地形分類図や色別標高図からわかるように、我が国の一級河川流域は一般に長大であり、最下流部を除き細長い氾濫原の中に堤防で画された狭い河道が走っています。その細長い氾濫原の多くは水田地帯であり、多数の地町村が(離散的に)並んでいます。したがって、「大規模な超過洪水」への流域対策は上下流の繋がりの中で考えられるべきだと思います。上中流での堤防整備を進め過ぎれば下流域の洪水量は必然的に増加します。逆に、水田の多い上中流域で計画的氾濫により流量を少しずつ逓減させれば、下流の都市部の安全度は向上するでしょう。このように、上下流の状態を俯瞰して氾濫水のallocationを考えることが流域治水の本質ではないでしょうか。OS1(全体)に対するコメントで紹介したように、元建設省技監の近藤徹氏は、2005年社整審に提出した「土地利用に関する河川行政上の論点整理」という文書において “守るべきところ”と“氾濫をある程度許容できるところ”の選別が必要になる」と書いています。河道のみでは超過洪水を流し切れない近未来の治水における「流域減災推進」において、近藤氏の主張は正鵠を射ていると思います。
このように考えると、“治水事業で再び避けられなくなる上下流問題”の緩和のための社会的技術を広義の河川技術に含めねばならない日が近づいていると思われます。それには上下流のコミュニケーションをはかる技術が本質的に重要となるでしょう。昭和30年代の多目的ダム開発の時代に上下流問題が深刻化しましたが、最も先鋭化した「蜂の巣城闘争」において反対派のリーダであった室原知幸氏が最後までこだわったのは「下流住民が挨拶に来ない」ということでした。現代でも、例えば阿武隈川上流遊水地建設において、下流の市町村の住民が上流農民に仁義を切ったという話を聞きません。上流農民の説得は「福島河川国道事務所 → 緊急治水整備対策出張所 → 上流の各町村の役場 → 農民」という間接的なルートによるもので、下流と上流のコミュニケーションはありません。
しかし、上下流を俯瞰した(本当の意味の)流域治水を具現化する上で、恩恵を受ける下流住民と損害を受ける上流農民のコミュニケーション手段を確保する社会的技術の検討および制度化は本質的な問題ではないかと思います。例えば(ホントに例えばですが・・・・)、上流での氾濫で恩恵を受ける下流住民が、グルメの見返り品ばかりを期待して見知らぬ土地に「ふるさと納税」するのではなく、上流の水田地帯に納税してコメを見返り品として受け取るということも考えられるでしょう。また、国交省の事務所は小学校の出前授業で水害について解説しているそうですが、遠足で上流の水田地帯を見学させることもあり得ると思います。
旧建設省が「トンカチ官庁から政策官庁への脱皮」を掲げたのは私が土研に勤めていた40年前ですが、今回のOS1における議論を聴く限りでは、未だにトンカチ官庁のままではないかと感じます。治水事業を円滑に進めるためには、室原氏の唱えた「公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない」という言葉の中の「情に叶う」という部分を噛み締めないと、本当の政策官庁にならないように思います。
最後の部分はご提示いただいたPDFの範囲を逸脱した精神論になってしまい失礼しました。Page番号が付されているパラグラフに対して石田さん(およびコーディネータの久保さん)のお考えを伺えれば有難く存じます。